昭和40年7月14日 夜の御理解



 毎日、(  ? )、平凡に、お生かしのおかげを頂いて、それを繰り返しておるということの中に、お道の信心の有難さというものを、何とはなしに、信心を頂いておるということが、又は、教えを頂いてその、教えによった生活をしておるということが、こんなにも有難いものだ、尊いものだと、真実心に、感じさせていただきながらの生活。それは、なんでもない、毎日のようであって、大変なことだとこう思うのですね。そういうようなものがいつの間にか自分の身についてこなければならない。何か特別なこといただいた時だけおかげ頂いた、(  ?  )、一生懸命お願いせんならんかったけん、やあやあ言うてお参りをしてから、お願をするといったような、ものではなくてですね。私は、これを、一遍通りお読みしたいんですけど、ちょっと長いですから読みませんが、東京の学生会の、方ですけれど、私にとって金光教とはなんであるか、と言うテーマで、毎月、これが、金光教青年が、発行されるたんびに、いろんな人が、いわゆる、若い青年の方たちが、いろいろ、私にとっての金光教とは何であるか、というようなことを、書いて、なかなか立派な文章で、しっかりと信心を、青年らしく、こう理屈っぽく、理論的に書いてあるんですね、いつも。ところが今日ここに書いてあるのは、( ? よしあき?)という方なんですけれども、金沢の田舎の方らしいんですね。だれかなんか後で行ってるんですね、そして、あちらでアルバイトをしながら、家庭教師をしながら、学校に行っておる人らしいです。もうそれが、もう実に素朴にですね、いわゆるまあ、椛目的な、雰囲気の中に、この今私が申します、平凡な中に、神様のおかげを頂いておる日々、それをです、おじいさんの死によって、はっきり自分の信心、金光教とは何であるか、ということを、まあ、祖父に捧ぐ、というような、題名で、書いておられるんですね。機会があったら、見て、10ページくらいのとこですから、まあ、お読みになるといいですね、もうその、素朴な表現が、もう、読みよって( ?  )ごとじゃない、(   ?    )涙が出るんです。というてそんなに特別奇跡的なおかげとか、特別な何ていうことじゃないのですけれども、もう、なんでもない中にです、あの、金光教とは、こういう、私にとっては素晴らしいものだ、ということを、感じられるような、その、文章なんですね。例えば、その、よしあきに会いたい、よしあきに会いたいと、この頃おじいさんが寝言のように言われるから、いっぺん帰ってくれ、という手紙がきられた。ところがその帰る旅費が無かった、というわけなんですね。それでその、寮長の方にそれを、貸してもらうことを頼んだところが、あなたの、何か収めてあったのが、千何ぼ余ってますよと、こちらが借りたいのが千円だったというわけなんですね、だからあの、細かい計算は後でするから、千円だけでも、返してくださると言うて、下さったと。それから、あの、実状の教え子のところに、こんなわけで何日か、田舎の方に帰りますから、行かれませんからどうぞよろしく、ていうてその、お電話掛けたとこの一軒がですね、あの、今月のその月謝を差し上げておきたいから、ぜひ来てくれ、って言われた、っていう。そらもう、帰ってからでもいいんですよ、と言うたけれども、もうぜひ来てくれ、と言われるから、行ったら、その、前払いに月謝を頂いたと。だから、友達から借りておった借金も支払って、そしてそれを旅費にして、まあ帰らせていただいた。それから、そのおじいさんが、亡くなられる何日間かを、おじいさんと共にしてからですたい、ほんとにこの、おかげを頂いて死んでいくということでも、こんなに素晴らしいことだと、いうことをですね、その、死を直前にしたおじいさんの様態やら、家族の方たちの、もう(ひにひな?)もう、何でもない坦々としたこの中からですね、しかもその中に神様に、この、お願いをしておればこういうお繰り合わせを頂けれるんだ、ということを、書いてあるんですね。何かお魚屋さんか何かで、忙しいらしいんです。姉ちゃんっていうのが、実は(これお父さんらしい?)んですけれどね。その姉ちゃんがおじいさんに言っておることなんかでも、おじいちゃんは、年末は忙しいんだとね、だから、正月は一緒にしたいから、正月まではがんばってくれよ、と言うてその重態のおじいさんを、残して市場に何日行かれるというわけなんですね、だからそのおじいさんが、その息子の言うお正月までは、指折り数えて、今日は何日かね、今日は何日かね、と言うてその、生きると言うことに対してですね、( ? )ではないけれども、おかげを頂きたい、という一心を、もうこう、もう最後の一日すとなったらもう、何日じゃなくてから、もう時間を数えられるようになってですね、そのまま、年末に亡くなっておられるんです。そげなふうにです、もう金光教の信心を一家挙げてですね、頂いておるということは、こんなにも有難いことだと。こんなにも、幸せだと。こんなにも、例えば死の、その間際まで、おかげを頂いていけれるんだと言ったようなことを、(   ?  )の中から、ご自分の中から、おじいさんの死を見つめてからの、会話の中からその、もう実にそれは素朴なんです、表現が。ほんとに、(   ?   )思いで、読ませていただいたんですけれども、これは私どもでもそうですね、ほんとにあの、信心というのがです、何か特別なおかげを頂かんならん為の信心であったり、そのときだけの、ただ、信心ではなくてです。ね、いつも、何でもない、平凡な時、なんでもないような中にです、日々教えを行じさせていただくところの生活の中からです、神様の万事万端の上の、お繰り合わせを頂きながら、神様の御理解、そのみ教えと、その、(おかず?)とをです、ほんとに有難いことだ、有難いことだ、という平凡な中にもです、とりわけ、百万円の宝くじが当たったとか、特別そのような人病人が助かった、といったようなものではなくてですたい、もう日々の中に、お道の信心が血に肉になっての生活、といったようなものをね、私ども身につけていかなければならんのですけれど、はたしてお互いの信心がですたい、(  ?   )、金光教の信心、例えば、お互いにです、なら、私にとっての金光教とは何であるかと、題を出された時に、私どもの、そういうような、毎日日に日にの中に、本日はこういうおかげを頂いた、といったようなものでなくてです、金光教とは理論的にこういう幸せ信心だ、といったようなことが、頭で分かってるだけではなくてですたい、もう日々の中に、教えが血に肉になっての生活、しかも、今日も、おかげを頂いて有難い、ということになる、そこに、私がいつも申しますように、朝のすがすがしさ昼の忙しさ、夜の有難さ、と言ったような、まあその、ものがです、日々の中に、繰り返されていかなければ、ならないと、いうことを感じたんですけどね。どうぞあとで、一遍、読んでごらんなさい、とてもその素朴な表現で書いておられます。 おかげを頂きまして有難う・・・。


                  2004 6 20 入力者 大坪 加代太郎